那珂湊市発行「那珂湊の地名」の記述より

 高台の中腹に北東を向いて稲荷神社がある。
 俗に「平五郎稲荷」または「海運稲荷」という。祭神は倉稲魂命、江戸時代末期の創建、祭日は初午二月。慶応年間の字大蔵塚の周辺は松山だった。

 
<管理人のコメント〉
 
私の子供の頃には崖面の要壁はまだ建設されておらず、石英の混じった砂岩質の赤い地層が露出していた。
 お社の脇には防空壕の大穴が掘られており、戦時中に神仏にすがって防空壕を設置したと思われる。
 また、昭和九年頃の清水町護岸工事ようの土砂の採取のために大蔵塚は平磯館が建つ箇所を除き、削られたために神社の位置は、創建時とは違っている。
 鳥居脇の高台に上がる坂道は「新坂」と呼ばれ、昭和九年の土砂採取の折に清水町の住民の非常時の退避用に新たに作られたので其の名がつけられた。杉が植林され昼尚、薄暗く感じた事を覚えている。

 神社には何時も子供の遊ぶ姿が見られ、崖面をよじ登って落書きをしたり防空壕に煙幕花火を投げ込んで煙にむせたりしていた。
 鳥居付近には定期的に紙芝居や「ぬき」、「べっ甲飴」を売るおじさんが自転車でやってきたので、
 それを待ち受けるため地域の悪ガキ共がいつもたむろしていた訳です。

大蔵稲荷 俗称 <平五郎稲荷> <海運稲荷>
創建 江戸時代末期
祭神 倉稲魂命うがのみたまのみこと
祭祀 例祭;2月初午日
神徳 元来、稲作の神であったが「衣食住の大祖、万民豊楽の神霊」となり、漁業関係者にも大きな御利益をもたらすものとして崇敬された。
特記
江戸末期頃、平五郎と云う者の後方斜面中腹に鎮座され、漁運稲荷として崇敬されていた。そのため、漁運稲荷・平五郎稲荷と呼ばれていた。