那珂湊市発行「那珂湊の地名」の記述より
北は北原、西は今法内、南は深川下、東は宮上。
天保十三年の村絵図によれば畑五十三筆、権現塚が同絵図に見える。
字名は同塚に由来すると考えられる。明治初期にも畑地だけで屋敷は無かった。
昭和四十一、四十二年の団体営ほ場整備事業(第二土地改良区)によって一部が長堀、新道に変更された。
津神社前より北に向かい、起松神社前より浜(阿字ヶ浦)に通じる道を「浜道」(俗称)という。天保時代よりすでにあり、当道は古くから重要な村落を結ぶ道路であった。伝承によれば、昔磯崎、浜(阿字ヶ浦)の人たちが浜道を通って平磯海岸へ鮑等を採りに来たという。その関係から平磯海岸の岩礁名に磯崎、浜の人名が今に残るといわれている。
平磯保育園の北方権現塚の頂上に樹木に包まれて「四社神社」がある。
俗に「四社権現さま」(焼ハタの神)、大宮姫命おおみやひめのみこと誉田別尊ほんだわけのみこと倉稲魂命うがのみたまのみこと建御名方命たけみなかたのみことの四神を祀る。
寛文十二年(1672)創立。伝説には徳川光圀が那珂湊の四社を焼いたところ、新幣が飛び着たり、この地に落ちたので、
四社明神(焼ハタの神)という。 権現塚が古墳かどうかは不明。
<管理人のコメント〉
小高い小山の中に大小のお社が鎮座している。
参道は小山を渦巻状に上って行き、頂上に時代を感じる小さな祠がある。
四神のうち、倉稲魂命うがのみたまのみことは稲荷神であるが、四つの祠のうち何箇所か稲荷と名乗っているので、
正確にどの祠が、どの神を祀っているのか把握する事が出来ない。
平磯は漁業の守り神を水神様や琴平神社ではなく、稲荷神に求めたので、長い時間の中で神社イコール稲荷神社という考え方が定着したのではないだろうか。
長年この四社神社のお世話をしてきた方もなくなられたそうで、詳しい事を知る人物がいなくなったのは、とても残念な事である。
別項で説明するが江戸時代末期「元治元年-天狗党の乱-」のおり、津神社や権現塚に立て籠もった天狗党の面々が、大砲を持ち込み、馬印や旗竿などを数多く権現塚の木立の中に掲げた姿が想像される。
権現塚が一番華やかな時だったのは其の時だったに違いない。
|
|
|
|