那珂湊市発行「那珂湊の地名」の記述より
平磯東方台地南端に鎮座。
神殿は海に向かって建つ。「津の明神」、「津口神社」とも言う。祭神事代主命。応永十五年(1408)十二月創建。
社宝の御神像は磯崎美亜の彫金によるもので、昭和十年平磯町奉納。祭日、一月十日、六月二十四.二十五日。祭礼は九月九日。境内社「素鵞神社」、神社境内碑は次の通り。
「鳥居寄付連名碑」<明治四一年>、「忠魂碑」<大正三年>、「伊勢金刀比羅神社参拝碑」<大正十五年>、「手習奉納碑」<大正十五年>、「西国巡拝碑」<昭和五年>、「寄付敷石三〇間」<昭和三十三年>等がある。
懸仏 青銅で直径10.1cm、厚さ2mm、重量一五〇g、の円盤状のもので。表面中央部に観世音坐像を浮彫りに鋳出してあり、上部に二つの小穴があり、像の右側に「白羽大明神御正躰」の字が見え。左下に「大二七□□」、像の下に「家次敬白」とあり、像の左に「応永一八年十二月吉日」の年記がある。
この懸け仏は相当古くから津神社にあったようだが、当神社に伝来した理由は不明である。室町時代の作品。昭和四八年五月2日市文化財(彫刻・工芸品)となる。所有管理者は津神社。
>文中の□は石碑文の摩滅で解読不能箇所
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<管理人のコメント>
古代、海面が現在より上昇していた時期があり、縄文時代には最高12mも海面が現在よりも高かったという。
その海面上昇の名残は西暦1500年前後まで続いており、
近隣の東海村にある真崎浦や阿漕ヶ浦は入り江になっていて、多良崎城は真崎浦に突き出た半島に立地していた。
まさにその時代には谷井沢へ続く谷津が入り江になり津神社の建つ台地は海上に突き出た岬となっていたと思われる。時の権力者は入り江の入り口(津口)を支配地とし、その名残が津神社や権現塚ではないかと考えられる。
注釈>津とは入り江や港を表す古い言葉である。
なにはともあれ、幕末の動乱期には天狗党が立て籠もり、
平磯明神として歴史にその名を留める平磯で一番の由緒正しき神社である。
私も七五三のお参りをし、初詣には地元民で賑わうその姿をいつまでも残してもらいたいものである。
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